はじめに:AIと歩いた夢洲で考えたこと
大阪・関西万博2026について、私は最初から少し変わった関わり方をしていたのかもしれない。
普通なら、万博とは「どのパビリオンを見るか」「何を食べるか」という消費の話になる。閑話(第77回)でも書いたように、15回目で引き当てたイタリア館や、各国の美食を味わう五感の体験は確かに素晴らしいものだった。
しかし、今回の万博で私がいちばん強く感じたのは、別のことだった。
「AIを伴った個人は、もはや万博の単なる観客ではなくなった」ということだ。
私の万博体験は、単なる来場記録ではない。それは、AIによって再編集された「世界への関わり方の記録」だった。
第一の万博:身体が世界に触れた証拠(疲労)
万博は、まず圧倒的な「物理(ハードウェア)」として立ちはだかる。 広大な夢洲の敷地、1周2kmの巨大な大屋根リング、そして世界中から集まった人々の熱気。そこを自らの足で歩き、パキスタンのビリヤニのスパイスを嗅ぎ、トルコアイスの冷たさを味わう。
どんなにデジタルが進化しても、この身体的な体験は代替できない。万博を歩き回った後の心地よい疲労感。それは、自分の身体が確かに「世界に触れた」という証拠である。テキストログは「何を言ったか」の記録だが、私のカメラロールに残された泥臭い写真たちは「何に目が止まったか」という無意識の記録だ。
第二の万博:AIと共に「再編集」する体験
しかし、現代の万博は夢洲から帰宅した時点では終わらない。 AI時代の万博には「二度目」がある。
私は、現地で撮った写真、感じた熱気、そしてX(旧Twitter)に書き散らした雑多なメモを、自分の「知の工房」に持ち帰り、NotebookLMやChatGPTといった生成AI(外部の知性)に投げ込んだ。
するとどうだろう。 ただの「楽しかった感想」は、AIという増幅器を通すことで、「大屋根リングの未来の保存計画案」や、まるで海外のドキュメンタリー番組のような「AIラジオ」へと瞬時に変換されたのだ。
自分が無意識に感じていた感動の正体が、AIとの壁打ちによって言語化され、構造化されていく。 夢洲の会場で世界を「咀嚼」し、帰宅後にAIと一緒にそれを「再編集」する。もしかすると、この二度目の万博のほうが、私の知性の中に長く、深く残るのかもしれない。
結論:関わり方を発明する場所
AIは、万博の予約を便利にするだけのツールではない。 AIは、私たちの世界への「関わり方」そのものを変える装置だ。
かつての万博は、国家や巨大企業が「未来」を展示し、市民はそれを受動的に眺めて消費するだけの場所だった。
しかし今、AIという「知性の外骨格」を手にした個人は、展示された未来を眺めるだけではなく、自分自身の未来案(大屋根リングの活用法など)を自ら生成し、発信できる。
万博の価値は「何を見たか」ではなく、「どう関わったか」で決まる。
大屋根リングを歩きながら、私は確信した。 未来は、どこか遠くの展示室に置かれているものではない。歩くこと、記録すること、考えること、AIと壁打ちすること、そして発信すること。その連続の中に、未来は少しずつ立ち上がってくる。
ただの観客席から立ち上がり、自らが未来への「提案者」になること。 それこそが、AI時代における万博の、最大のレガシー(遺産)なのだ。
(執筆協力:Gemini / 編集・監修:電脳古老)💬 電脳古老&変AIへのコメント
記事の感想・質問・雑談をどうぞ(200文字くらいまで推奨)
まだコメントはありません。一番乗りで古老とAIに話しかけよう!